旧480回 弓”道”とは…

ちょっと意味深な内容の話を今回は話して行きます。 礼節の弓道だけでは神髄へと至れない事に対する深みの話で、それは弓道の例えから話しますが、基本的に全ての〇〇道に類する物にも通ずる話になります。

 物の本質を見極められなければ、その道としての神髄であり本質の境地に至る事は出来ない。

 現状は今の定義付けがそこに辿り着く為の最大の障害になっている。

 ただし、今のやり方を否定する気はありませんよ。神髄であり本質の境地に至る目的が無ければ、必要の無い話ですからね。エキスパートのさらなる上位へ目指す気が無ければ意味のない話ですからね。

私は過去に礼節や作法が重要視される弓道ではなく、弓本来の競技の形のスポーツの形を作りたいという感じで話をしましたが、今の弓道の礼節作法における精神が大事だと思っている人にこの思いは全く伝わらないのでしょうね。

その状況は分かりますし、礼節を重んじる弓道の形は理解できますが、本当に弓道の神髄の本質に至る為の礼節なども含めて考えようとするならば、今の形では決定的な事柄が外されているが為に、そこに永久に辿り着く事が出来ない状況にされています。

それは弓本来の形を、弓本来の物としての気持ちを無視した形で、弓を弓道として単なる礼節や作法の重要性を知る為の道具として扱っているからです。

 いかに弓道で弓を大事に扱おうとしても、それが弓道の形における形で弓を日本の和の礼節や作法を知り高めていく為の道具として位置付けている限り、その弓における神髄であり本質の道に至る事は出来なくなっているのです。

礼節や作法ばかりを重んじるがゆえに、その弓という物が何を元にして作られ、何の目的で扱われてどのような人との繫がりの位置にいるかを考えられた人はいるでしょうか? それは今の弓道の形からは絶対に知ることが出来ない弓の存在の本質です。

過去に少し話しましたが、弓という物は本来の用途として、狩猟用の獲物を狩る道具や戦争における武器として用いられてきましたが、そのどちらでも共通する弓に対する心構えという物があります。

それが、弓は相手を倒す為の武器であり自分を守り生かす為の戦場におけるかけがえない相棒(パートナー)であるという事です。

弓を用いて弓の力を最大限に扱って相手と戦い倒して行く戦友の形による重要な相棒であり、命を懸ける存在としても弓の形は存在していました。

これは弓に限らずその他の剣や槍等に関しても同様で、それを大事に扱って共に戦場を掛ける重要な相棒としてその存在を駆け抜けてこられる人が、その武器における神髄や本質の道に至れて性能を最高に発揮させて強さを上げて行けたのです。

つまり自分の命を預けて共に戦いの舞台で戦って行ける相棒として見る事が、その武器の神髄や本質に至る存在に値する状況になるという事で、礼節や作法の為の道具として扱っているだけでは、本当に弓の神髄の道に至ることは絶対に出来ないと言えるでしょう。

現状今の弓道では、弓の道というよりも、弓を用いた日本の和の伝統や歴史への礼節や作法を覚える為の道であり、弓道という事は本来の意味合いからはふさわしくない言葉に該当すると思われます。

 弓道と言いつつ弓はただの道具でありそこまで関係のない物として扱われるのなら当然ですよね。現実的に弓道の試験なども弓の腕前や実力よりも礼節や作法の方を重要視されているというのでは、弓をただ礼節や作法を学ぶためだけの道具として利用した本当の弓道では穢した形ですからね。

 和の伝統や歴史を学ぶための道具として使う弓道で良いならばそれでも全然かまいませんけどね。それは真に弓の道ではありませんがね。

それにおける道の形は、その物を礼節や作法などを覚える物の為の道具として位置付けているかどうかによって変わってきます。

 剣道などの本来の用途が武器であるのならば、弓道の精神の形と同じで、それを共に戦場を駆け抜けて命を預けられる最高の相棒だと思えないのならば、その精神の神髄であり本質の道に至る事は出来ないという事であり、華道や茶道などの本来の要素が楽しませ見せて喜ばせる物であるのならば、その物の本来使う用途を深く知って、何が大事であり大切な事なのかを学んだうえで、今の道とも融合させていく事が神髄であり本質の道に至って行く事が出来るようになる。

 それを礼節や作法の為の道具として見ている限りでは、永遠に本質に至る事は出来ない。

華道は、花の生育に携わりその花々たちとの成長と生死の形を見極めて、その花々で何が本当に大事で必要となるのかを知り得る事が出来なければ本質の華道の道には至れず、茶道でも1からその扱うお茶を作り出して行き、お茶における本質の用途の形で何が大切であり大事なのかを理解した上で、それを扱っていく形に出来なければ、本当の神髄や本質の茶道の形に至って行く事は出来ないという事です。

現状今の道は、和の伝統や歴史における礼節や作法の形が重要視されて、本来知る必要のある物の本質を無視して、ただの道具として扱っている状況では、本当のその道々の神髄や本質に至ることは永久に出来ないという事です。

道具として使われている物の本来の意味を知り学んで確たる自分の相棒的な状態として共に進める状態でなければ、その道の本当の神髄や本質に至る為の道の入り口にすら立つ事は出来ないという事ですね。

 現状はその道具を媒体として、その道と言いつつ礼節や作法を学ばせる為だけの事柄に置き換えられている。 だからそれにおける最終到達地点に至ることは誰にも出来なくなっているのである。

礼節や作法を学ぶためだけの用途の道具としてだけで用いて行けば良いというのであれば、別段今のままでも全く問題ないし、それは非常に良い形であるとも言えますね。

 だがしかし、それの最終到達地点には至る事が出来ないというだけでね。

だから私は本来の弓のあるべき形である弓道の競技という物の話で話したわけですね。  大事という言葉の意味が、礼節の弓道と戦場の相棒の弓道では全く違うという事です。

それではここまで見て頂きまして誠にありがとうございます。

 弓道の本質~終了~武器の弓

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