旧587回 教育体制超改革 特化型のびのび教育~個性に合う教育の形~
特化型でありながら、子供たちが思う形でのびのびと教育を受けられる事を基本とする体制の形です。
それでありながら早くから学習への計画を考えさせながら、遊びも勉強も有意義にさせられる仕組みでもあります。
これなら本当の意味の教育の形が成り立ち、遅いも早いも関係なく、授業の形等の教師陣の負担も減らしていける完全超改革の形です。
ついでに学生たちからして喜ばしい事と言えば、小テストや長期休暇系統の宿題の形もかなり削減されます。
やる意味がほとんど無くなるし、自主性と勉強習熟度による学年レベルアップなので、自分の実力に見合う形でやらなければ、結局は全部自分にそのまま返ってくるだけになるので、教育として子供たちに無理にやらせる必要はなくなるのです。
しかしそれこそ本当の意味の長期休暇に対する勉強の形の計画性を考えさせる意味には真価を発揮する形であるとも言えるでしょうね。
それで今回は超改革となった新たな私が考え出す教育の形の内容を紹介していきます。
基本的な所としては、私が従来から主張する勉強科目や特定の分野等の特化型の授業による各分野におけるエキスパートを育てていく為の教育体制の形に新たな仕組みで、子供たちの勉強の覚える速度の早い遅い事の教育状況の違いによる問題を解決する為に通常の学年の上がり方の固定時間数による強制的な形から変えて、勉強の習熟度に合わせて学年が上がって行く形のレベルアップ方式で学年の分け方とさせて、覚え方の状況に合わせて千差万別のスピードで学習状況に合わせて、それぞれに合った形で学習が出来るようにさせます。
故に完全に同じような形で授業等を受ける事は少なくなり、それが行なわれるのは小学1年時や特化型教育からの各教科における社会に生きていく為の最低限必要な知識に関する所を学ぶ所ぐらいの形になります。
残りは好きな教科や特定の行動等の分野の教育の形に専念して覚えていく形となり、その中には部活動の範囲も含まれる形となり、従来の勉強とは別の形の存在から、1つの教科の単位の形として部活動の形が組み込まれる形になります。
それで運動系の部活等で、基本教科等と被る所がある場合は、片方が出来れば自動的に補完される事もあるという事にします。
そして社会にて最低限必要な知識の形は、今までの基本の国語・数学(算数)・理科(科学)・社会(歴史)の形の4つを今までの形からの基本として、それともう1つ新たに加える社交能力の教科を加えた5つを基本として、レベルに合わせて段階的に用意していく形とします。
ただしこの基本的な所は、中学までの間にすべて覚えられるようにして、高校以降は完全に特化のみで学習して行ける形とします。
ちなみに英語は日本で普通に生きる上で不必要であり、また補助する機械も多く出てきているので、選択出来る形の特化の形になります。
そして最低限の知識の形も、国語は主に文字や言葉の意味を理解出来るようになって、漢字も簡単な物は書ける程度で後は読む事が出来れば良いという形にして、算数系統は足し引き掛け割り算くらいが基本的で、後は重量とかの特殊な単位が何であるのかを軽くといった辺りにして、理科は自然に関する分野やごく簡単な科学の形等を覚える形で、社会歴史も日本と世界にてこれから生きる事の最低限必要な知識程度の形で良い形にする。
それ以外の部分は全部特化選択して学生がもっと覚えたいとするときに覚えていく形にして、社会で普通に生きる事に必要な知識かどうかで各分野の最低限と特化からの深い内容と違いをはっきりさせる。
正直デジタル社会では、難しい漢字を書く事や数学で√とか分数等や理科化学の科学数式とか社会歴史の細かい情報までは、覚えても意味が無いというか覚えても全く役に立たない知識の形が多すぎるので、それらは全部覚えたい子供(学生)が学習したい状況に合わせて教えていく形にするのが、1番効率が良く、深く理解してどんどん次に進んで行きやすい形に出来るでしょうね。
だって、好きな事に関してならば、どんどん覚えて学習していきたいと思えるでしょ?
そして追加された物は、クラスメイト達との交流に関する部分で、社交能力としていますが一部には道徳的部分も含まれていますが、基本は学生間の交流の形で判断していく形で、まずはクラスメイト等から友達と呼べる他の子を探して見つける所から始めて、徐々に必要な数と仲良し度の状況を明文化させてレベルアップしていく形にして、最終段階では最低5人以上と友達関係になれれば良いという辺りにします。
ただしこの友達関係のルールとしては、同じ学校内だけである必要はなく、別の学校の友達でもよくて、友達の概念ではなくて勉強や好きな事のライバル(好敵手)とか師弟関係のような状況でも良く、とにかく何かしらで繫がりがあって仲良く出来る関係の学生間の付き合い交流で、確認が取れる状況であればよいとする形です。
なので、友達作りが難しい子供でも何かしらの分野で他の子に教えて上げられる関係や友達からの友達を紹介してもらう事で増やして行くなどでも十分に良いという形で、とにかくいろんな事で関係交流が保てればよいとする教科の形ですね。
その状況で関係を良く出来ていれば、それだけで友達関係等の最低限の道徳的な状況も必然的に覚えられますからね。あとは基本的社会に出て困らない程度の他の社交能力の座学の形があれば良いですね。
基本は特化型の教育の形で、社会生活に必要な最低限の教科科目をこなしながら、好きな教科科目もどんどん先に進んで行く事によって、その習熟度によって学年レベルが上がって行く形になり、小学6年生までは最低限を覚えて行きながら、好きな教科に特化した物も小学校の限界まで覚えて進んで行く事が出来る形で、それ以降は中学高校大学へと学校のレベルを上げて、さらに特化を突き進めて行くような形になります。
なので、学年の形は学生の勉強を覚える状況に合わせて千差万別と変化するようになり、早い子供であれば、小学1年時の形から1年後には3年生以上にまで上がり、遅い子は2,3年かけてようやく2年レベルに上がるという子もいる形になります。
この状況でレベルの上昇が遅い子が必ずしもダメという事にならない形として、小学生の形では最低限の知識の習得も必要になりますが、同時に好きな事に対してはどんどん先に進んで覚えていく事も可能なので、最低限だけが遅いだけで好きな事に関しては普通に数学年上の形になる子供もいるという形に出来るので、その形によって順列の形ははっきりと存在しない形に出来ます。
ついでに卒業の形や部活動の形等にも関係する所で、この形の卒業では、早くても遅くてもあまり関係する所ではないけども、勉強だけを早く突き進めて行きたい子供ならば、さっさと上位学年から次の学校に向けて進んでも良いけど、もう少し遊びたい子供や仲の良い子などが同じタイミングで上がる為に協力したい場合等は、残る事も可能という形にして、卒業条件を満たした後は、その子のこれからしていきたい状況に合わせて好きに選んでいけるようにする。
また特化教科の部活動の範囲に関して運動部関連では、子供の身体成長の状況に合わせて出来るレベルが変わってくる状況もあるでしょうから、そこはその成長状況に合わせて卒業のレベルも変化してくる形となり、同時にレベルを満たしていても残る事も次のレベルの学校に進む事も可能という事にして、自分が覚えたい事ややりたい事の状況に合わせて、進路の形を決めていくようにする。
そしてそういう自由な感じの自己の判断で卒業のタイミングを選べる形から、入学卒業の形も日本の昔ながらの4月からと世界基準の9月からのどちらでも可能な形にする事ができ、さらに4月に入って9(8)月に卒業とか、9月に入って4(3)月に卒業なんてことも自由に選ぶ事が出来るようになる。
また、基本的な学期単位で考えるならば、1月も検討に入れる事も可能である。
全ては卒業のレベルを満了して、次に進むべきかどうかのタイミングは、その子供が自由にその時の状況に合わせて選べるようにする。
覚える事を重視するのか、仲が良くて切磋琢磨できる友人の状況を考えるのか、その学校でやりたい事が残っている事等を重視するのかは、全部その子が自主的に人生設計をして考えて選ぶ形にする。
それが自由でありながらも、人生設計の形を考えて行くという教育の形の1つになる。
故に長期休暇の休みの際の宿題等は基本的に必要なく、やりたい子供は行なってやりたくなくて遊びたい子供は遊んでからまた学校勉強に精を出す形で、その事まで含めて人生設計を考えて計画する事の勉強の1つにさせる。
それでも難しく考える必要は特に無いのですけどね。基本的に学校の形が好きな事を覚えていく事をサポートしていく形になるので、遊ぶも勉強するも自由となり、その事まで含めて成功も失敗も体験しやすいように出来る形になりますからね。
遊ぶ形から特化していく方向性を決められたり、社交能力を鍛えられたりもして行くでしょうからね。
残りの部分で学校行事に関する所がありますが、こちらも少々ぶっ飛ぶ形で、基本的に全国的な学校行事の代表格としては、運動会(体育祭)と文化祭がありますが、入学卒業が2つ以上に分かれると、開催が難しくなりそうな状況となりますが、この場合面倒なので、自由開催の形からそれぞれ年2回で時期をくっつけてしまえばよいのです。
つまりそれぞれ年2回行われて、開催時期は同じまたは隣接状況で発生して、どちらに参加するのも自由という形にします。
それならば、嫌いな方に無理やり参加させられる事も無くなるし、勉強等に集中したい場合は、どちらもやらないとする選択肢も出来るようになる。
基本は自由参加であり、学年分けの形もあまり存在せずにクラスの分け方もかなり特化内容によってバラバラなので、基本的には個人単位から同じ関係性等のグループ単位で分かれてどちらにも参加可能という事にして、体育祭と文化祭の開催に関しても、前後どちらで片方ずつ行う事もあるいはどちらも同じ日付で同時に行なってやるのかも自由に判断してやって良いという形にします。
なので、どちらにも参加しなくて見て楽しむ事やどちらにも参加して謳歌する事も可能という形であり、基本が祭りなのであるから、嫌な事に強制参加で巻き込まれるよりも、自由参加で楽しみたい子が楽しくやって行くのが本当の祭りの形にもなるでしょうね。
参加者を増やしたいならば、何かしらの商品等で釣れば良いだけですしね。
そしてどちらも年2回開催なので、そのどちらにも参加して片方にだけ参加も自由に出来るという事で、自主性を尊重しつつも精力的に頑張って行きたい子供(学生)には、アピールできる場所が2倍用意される事にもなります。
それに、どうせ行われるのならば、時期をくっつけた方が準備の形もあまり変わりませんからね。
形としては倍になっても、祭り的な形としては行なわれる状況回数は変わらないので、この形にするのが4月でも9月でも入学卒業が自由に出来る形の教育の形に合うという事です。
そして残りの特定の日付や各地方や各学校限定の行事などに関しては、その形に応じて対応するという事とします。 私もそんなすべての学校行事の状況を津々浦々と知れる万能な神のような存在ではないのでね。なので、一般的な範疇でね。
これが現在の完成版の内容ですね。のびのびと自由にさせているように見えて、実際は早い内からどういう勉強の形にしていきたいのかを学生たちに選ばせて、自主性を重んじながらも人生設計の形を考えて行きやすい形の教育の形になります。
どんな行動で頑張って行くのもある程度自由な代わりに、その行動の成功や失敗は感じやすいし、身に付きやすい形になるので、成長の形としては総じて良い方向に繋げ易くなるでしょうね。
何より好きな事に特化してどんどん覚えていく事が出来るので、楽しく学校生活を謳歌しやすい状況になる事は言えるでしょうね。
ちなみに、特化科目はいつでも好きな時に変更可能ですし、複数選んでいく事も可能なので、国数社理英を特化に選ぶ今までのような授業体質でどんどん進むという選択も可能なのです。
全ては覚えたいとする学生の選択の形からの特化型教育になりますからね。
苦手な物は必要最低限覚えるだけの形にすればよいのですよ。それは同時に好きな事を覚えていく為の基礎知識にもなりますからね。
そして学年の形を勉強の習熟度で分けていくから留学等の対応もしやすいし、教師の勉強状況に対しての対応の形もやり易い形になる。
小学校では基礎の形と2年時以降からはその特化した教科の形から判断していく状況であり、中学以降は完全に選んだ教科の特化の形から判断していくので対応が行ないやすくなる。
ついでに覚えていく為のやる気や学習意欲も上がりやすいので、教師の覚えさせる為の負担が減る事にも繋がり、小学校でもある程度平均的な能力よりも専門分野で分かれていく形になるから、教師の総合負担も減る形になりやすい。
人員不足等の場合は、ネット等で繋いで教えられるようにすれば良いだけだし。
細かい所などは抜けもあるでしょうが、大体の基本的な内容の完成版はこの形になります。
今と比べるとかなりぶっ飛ぶ形になりますが、これなら基本的に覚えていく必要がある勉強内容は自分が好きな分野になって行くので、個人からネットで見つけて覚えていく事もしやすい状況になり、学校で覚えていく事も自宅から自分の方法で覚えていく事もしやすい状況で、総じて学習が行ない易い状況になって行くでしょうね。
そして社会で生きていく為の基礎的最低限の知識レベルの範疇ならば、その辺の大人や親たちでも教えていく事が出来るでしょうから(できますよね?)、その辺の問題も解消しやすいでしょう。
それではここまで見て頂きまして誠にありがとうございます。
教育体制超改革~終了~特化型のびのび教育