旧520回 表現の自由はどこまで? そして覚悟と安全対策

今回は愛知で問題噴出した表現の不自由展からの内容で、慰安婦少女像の話に絡んだ事を話して行きます。

 表現の自由は出来るだけ守られるべきなのでしょうけど、どこまでが大丈夫な範囲は調べておく必要があるでしょうし、表現する事に問題は無くても反発必至からの安全対策まで考えなければ行けない事もあり、それも含めての覚悟も必要だと考える状況ですけどね。

分かり切った反発が後から来て途中で止めるというのは、その行動自体が表現の自由に反しているでしょうし、やるうえでの覚悟が足りないからであるという見方も出来ますね。

 ただしそれを無断で強行して、周囲への説明なしにやって戦乱を巻き起こそうという意図の考えであったのなら、それはしてはいけない表現の自由に該当するでしょうけどね。その辺りの詳しい話を今日はしていきます。

愛知の表現の不自由展から始まって大阪にまで場外乱闘が巻き起こった表現の自由についての話をしていきます。

 一般的に表現の自由と言われる事がありますが、この表現の自由とはどこまでの範囲を自由と評する事が出来るのでしょうかね?

 愛知県知事は全てが平気であるかのような事を言っていますが、表現の中には戦争を始めさせる物や人種差別を始めとした差別系のヘイトスピーチ等も表現として含まれますが、あれらも全部平気だと考えるのでしょうかね?

 だとするとその考え自体は危険思考だと考えられるでしょうね。相手を一方的に不快にさせて精神を傷つけるような攻撃にまで値する表現まで自由にさせたら、それは表現の自由ではなく無法状態であるという事になるでしょうね。

 だから表現の自由と言ってやりたい放題何しても良いというわけでなく、きちんとある程度のモラルの範囲内で相手を一方的に不快で傷つける状態にさせない物は選ぶべき必要があるという事ですよね。

ただしそれは現在進行形の物で、過去の歴史であったことを表現するというのであればそれに必ずしも該当する物では無いのでしょうけども、その場合は表現の仕方の方で問題となるでしょうかね。

 ただ歴史である事の表現として伝える物であるならば良いけども、その過去の歴史の話を今にも持ち出して用いて一方的に誰かを傷つける目的で表現されているのであれば、それもまたダメな表現の自由であると言える。

これが民間で個人のお金から出されての表現の仕方であれば、その自己責任で出来る話でもあるのでしょうけど、今回の事例では県の税金が用いられてまた現在進行形の問題に該当する内容にも関わる為に問題だと言われても仕方が無いとも言えてしまう物がある。

さらに言えば、今回の少女像に関しては、日本でも存在自体に嫌悪感を抱く人もいるでしょうし、反韓の象徴として捉える人もいるでしょう。

 その状況で表現の自由だからと出す状況で反発や批判が起こる事は普通に想定される話であり、事前の予告通知などで知らせずにいきなり出して反応を見ようとか考えた場合は、それは分り切ったヘイトスピーチのような行動にも類される事となる。それを表現の自由として表わしても良いというのだろうか?

だが予めこれを展示するとして一定の理解や展示する意図などで理解や周知がある程度できている状況で、反発が予想される事の対策としての安全対策なども出来ている状況下では、途中で止める事自体の表現の自由に反する行為である事にもなり得て、出すならば全ての責任と覚悟を持って対処して行く必要があったとも言える。

 問題が予想される中で見切り発進は、一歩間違えれば意図しないヘイトスピーチと同じような状況になる。

それを想定していなかったでは許されない表現の仕方でもあると言える。

それに今の有名な慰安婦少女像も見栄え良く加工された韓国のみが主張する内容で構成された物であり、正しく歴史を伝えているのかはあやふやな状況で、韓国の主張のみを一方的に代弁する物としても扱われている事から、場所間違えれば差別的主張行動の為の物としてなる可能性もある。

現に今の状況でも韓国では一種の反日という人種差別に近い物として扱っている事も多い物であり、韓国や韓国勢が多い場所では普通であったとしても、当の日本人が多い場所でやる行為は堂々とした反日のヘイトスピーチの為の物であるという見方がされてもおかしくない物であり、いくら表現の自由とは言ってもヘイトスピーチまで表現の自由に入れるのはおかしいだろうという意見があっても全くおかしな話ではないと見る。

世界の安全を脅かして、戦争を生み出す物までを表現の自由で全部許されていては、それは平和に対する攻撃行動の目的の表現にもなるという事である。

 だから表現の自由がいくらあると言っても最低限の戦争や争いを引き起こさせない程度のマナーは守るべき話であり、人種差別などの差別に該当するような物も個人の自己責任で済むもの以外は、やるべきではないと考える。

今回のケースなら展示に関わる全ての人がその職の立場を辞するぐらいの覚悟と責任を持つ事が出来ないのであれば、やるべきではないという感じですね。

 その個人や団体の関係者すべてが自己責任で表現の自由に対する対応を受け入れる事が出来ないのであればやるべきではないし、あからさまに誰かを一方的に傷つけ差別に該当し戦争を生み出すような事等はいくら表現の自由だからとそこまで自由ではいけないと考えますね。

 ある程度の秩序と規則が無ければ、それは平和の破滅の表現でしかなくなるでしょうね。

全ての表現の自由を訴えるならば、それに対する表現をする事により発生する事の覚悟と責任を受け入れる事が出来る状況でなければ、やってはいけないと考えますね。

 それも完全な無法表現では意味がなく、ある程度の決まりや世界的な最低限のマナーには守るべき事ではあると考える。

世界に著しく争いの火種をまき散らすような表現はダメだと思いますけどね。

 今回の物も別の見方から見れば、日韓戦争再戦の火種として見る事も出来ますからね。

完全に鎮火した歴史の表現であればまだいいけども、未だに燻ぶっている物に関して安易な表現の仕方はダメだと思いますけどね。

 現状でも韓国の手先による反日行動だとか反韓思想を植え付けさせるような物であるという見方がされる状況の時に公開展示させる物ではないと考えますけどね。

これは彼の韓国が、日本がどれだけ謝罪をしようともすべて完全に受け入れる気が無くて、いつまでもそれでお金などをせびろうという感情があるが故の状況ですけどね。

 韓国側に問題の解決を作ろうという意思が無いのだから、いつまでも燻ぶり続けるしかないでしょうね。

それではここまで見て頂きまして誠にありがとうございます。

 表現の自由~終了~最低限の秩序

表現の自由と言った所で、基本的に日本の放送関連ではある程度の規制はあるのだし、それは一部の人を著しく不快にさせ気分を悪くさせないようにするといった意図があるわけで、それを無視したら人をむやみやたらに傷つけまくる表現になってしまうわけで、それはいくら表現の自由だからと言っても加害行動になる物まで自由化はさせられないでしょうという話ですよね。

 そういう意味での表現の自由とは言っても最低限度の秩序や規制は必要であるという話ですよね。

早い話が小さなお子様に見せてはいけない表現まで自由にしていいのか?といった所ですか?

 間違った教育になる物まで表現の自由にしてはいけないでしょうという話でもある。

 だから表現の自由を規制のない完全フリーな自由だという発言は間違っている物だと考える。

 今回の問題は表現の展示が一部の人を傷つける物にもなると分かった上で出したのかという所ですね。

それを知らずにやったから途中で引っ込めるような判断をしたのでしょうけど。 END

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